アイヌ民族はどのように暮らし、どのように歩みを進めてきたのか
北海道に人が生活するようになる
北海道には約3万年前から人が生活するようになり、その頃は石器(石で作った道具)で狩りや漁をして生活していました。
約1万年前の縄文文化期になると、弓矢や釣り針などを使って動物や魚をとったり、植物や木の実を採集したりして生活するようになりました。地面に穴を掘り、柱を立てて屋根をかける竪穴式住居に住み、縄の模様をつけた縄文土器を使っていました。
続(ぞく)縄文文化期(2500年前)になると本州から鉄を、擦文(さつもん)文化期(1400年前)には、漆の器や刀などの道具も手に入れ、石器はほとんど使われなくなりました。擦文文化には、現在よく知られるアイヌ文化につながるものが多くみられます。
和人が北海道へ
13世紀になると、自分たちで道具を作るほかにも、交易によっていろいろなものを手に入れるようになり、その範囲は、遠くサハリンや千島列島にまでおよんでいました。
そのころ、北海道は和人(わじん)に「蝦夷地(えぞち)」と呼ばれ、渡島半島の南部に本州から移り住んだ和人が、アイヌ民族と交易をはじめました。そのうち、和人は自分たちの都合のいいように交易するようになったため、アイヌ民族の不満が高まり、コシャマインの戦い(1457年)やシャクシャインの戦い(1669年)が起こりました。
商人の進出と苦しいアイヌ民族の生活
18世紀になり、交易が和人の商人に任されると、商人は儲けるため、アイヌ民族に漁をさせたり、遠くまでニシン漁などに行かせるようになり、アイヌ民族の生活は大きな影響を受けました。
また、天然痘(てんねんとう)という病気が本州から持ち込まれたために、多くのアイヌ民族が亡くなりました。
国の同化政策とアイヌ自身による教育
明治時代(1868年)になると、政府は蝦夷地を「北海道」として日本の一部にしました。政府は法律を定め、アイヌ民族は山や川で狩りや漁が自由にできなくなり、生活が苦しくなって漆の器などの宝物を手放す人も出てきました。
また、名前も和人風に変えさせられたり、いれずみなどの風習も禁止されたりしました。学校では日本語が教えられ、アイヌ語を話せる人も少なくなりました。
そのような中、登別市のアイヌ民族、カンナリキ(和名 金成喜蔵)らは自分たちの子どものために学校をつくろうと立ち上がりました。
そして明治21年(1888年)、地元のアイヌ民族とキリスト教の宣教師であったジョン・バチラーにより、アイヌ民族の子どもたちのための学校「愛隣(あいりん)学校」がつくられました。
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